私の目指す人です。
なかなか、その人のようには、なれませんね。
その人とは、斎藤宗次郎さんです。

私もなんとか収入を得て生活の足しにせねばならないのに、ひょとしたら、

1件の依頼しかないかもしれないのにこのような仕事をするのは、私の心の

中に、雨にも負けずのモデルとなったと言われている斎藤宗次郎の事が、

離れず、この人のようにありたいと心から願っているからなのです。

わが子を殺されても、復習もせず、恨むどころか、その町にとどまり、あっち

こっちに行き人を励まし助け、常に神に感謝したのだそうです。

この人ようにありたいと思っていますが、なかなか、そこまでにいつなれるか

と思います。

斎藤宗次郎は、特別な宗教団体に入ったのではなく、自分と神様との、それだ

けの関係でした。 本当の信仰は、団体行動をするのでなく、一人で神仏に向

き合う事ではないかと、思うのです。

宗教団体に入っておられる方には、大変申し訳ないと思いますが、一人で神様

仏様に、会いに行ってこそ、ほんものだと、お恥ずかしながら、そう思っています。










【斎藤宗次郎の紹介】

宮沢賢治「雨ニモマケズ」のモデルとされる斎藤宗次郎氏




私は、この雨にも負けずの モデルとなった斎藤宗次郎の事と、雨にも負けずを、御存知無い方に、ご紹介したいと思います。

斎藤 宗次郎(さいとう そうじろう、1877年2月20日 - 1968年1月2日)は、岩手県東和賀郡笹間村(現・花巻市)出身のキリスト教徒

無教会主義キリスト教徒である内村鑑三の最も忠実な弟子の一人で、その死に至るまで身の回りの世話をした。斎藤また、『雨ニモマケズ

のモデルとも言われている。

日露戦争の際、内村に影響され本気で非戦論を唱え、「納税拒否、徴兵忌避も辞せず」との決意をする。心配した内村が花巻を訪れ説得し斎藤は翻意するが

すでに県当局からにらまれ、
小学校教員の職を失った。その後は新聞取次店を営みながら生計を立て、清貧と信仰の生活を送る。画家の中村不折は彼を「花

巻の
トルストイ」と呼んだ。晩年多くの弟子に裏切られ、「弟子を持つの不幸」という文まで書いた内村に終生尽くし、1930年昭和5年)の内村の死の際には隣

室に泊り込んで日夜看病した。

宮沢賢治との交流[編集]

同郷の出身で日蓮宗国柱会)の信者だった宮沢賢治とは宗派を超えた交流があり、1924年大正13年)の日記には賢治の勤めていた花巻農学校に斎藤が新

聞の集金に行くと賢治が招き入れ一緒に
蓄音機で音楽を聞いたり、賢治の詩「永訣の朝」らしきゲラ刷りを見せられたという記述が見られる。また、賢治の散文

詩「冬のスケッチ」には斎藤をもじったと思しき「加藤宗二郎」という人物が出てくる。

一部には「雨ニモマケズ」のモデルであるという説がある。これについては、岩波書店から刊行された日記「二荊自叙伝」の解説で賢治研究者の栗原敦が、「雨

ニモマケズ」には賢治の嘆きや弱さがにじんでおり、安易に斎藤に重ねることは、迫害に耐えた斎藤の強固なキリスト者としての独自性を見逃すおそれがあると

指摘している。

1927年(昭和2年)、上京。1968年(昭和43年)、90歳で死去。


〔雨ニモマケズ〕

宮澤賢治

雨ニモマケズ:宮澤賢治の自戒の言葉

「雨ニモマケズ」で始まる、宮沢賢治のあの有名な文章は、詩という形で書いたのではなく、賢治が自分自身に言い聞かせるための、自戒のようなものとして書いたものだった。賢治はそれを死の前々年の秋に手帳に書きとめ、そのままかばんの一隅に詰めていたものを、弟の清六が賢治の遺品を整理している最中に発見した。いきさつからして、いわくのようなものにつつまれている。

この作品は戦前の学校の修身の教科書に載せられ、戦後になっても国語の教科書に載せられ続けて、日本人なら誰でも一度は読むことになった。賢治が今日国民作家と呼ばれるようになる所以は、多くこの作品のうちに懐胎しているといってよい。

だがこの作品の扱われ方は、かならずしも賢治にとって意にかなうものではなかったといってよい。

この作品の中には、疑うべくもなく自己犠牲の精神が歌われている。戦前の軍閥政府はこの自己犠牲の精神を、国民を戦場に駆り立てるための道具として使った。雨にも負けぬ丈夫な体を作り、一日に玄米四合と粗末なおかずを食べ、人々のために献身的に尽くしたいという賢治の志は、軍人の手本にもなるものだった。賢治がこの言葉に込めた自己犠牲あるいは献身の精神は、容易に愛国精神へと転嫁させられたのである。

戦後の日本も、賢治のこの言葉を利用したといえる。焼け跡の中に立ち上がった国民に、質素と堅実を呼びかけ、一日も早く国が復興できるよう、献身的な努力を求めるうえで、これほど相応しい言葉はなかっただろう。

GHQはこの文章の中にある一日四合の米という表現を三合に改めさせた。敗戦国日本の飢えた人民に、一日四合の米を食わせるだけの余裕がなかったからだといわれる。それでも国民は一日三合にも足らない米に雑穀を足し、甘んじて復興に邁進したのだった。

だが賢治がこの文章を通じて本当に目指していたのは、他人に対する呼びかけなどではなく、自分自身に対する戒めだったのだと思う。

この文章は「雨ニモマケズ」にはじまり、つぎつぎとあるべき姿を並べ立てて、最後に「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と結んでいる。それらのあるべき姿とは、賢治がそうありたいと思いながら、そうはなれなかった姿、そうあればこの世に生きていることが何がしか意味を持つべきだったはずなのに、そうはなれなかったために悩み続けてこざるを得なかった、そういう類のものである。

だからこれは賢治の痛恨の思いを込めた言葉なのであり、もしもこれからも生き続けることができるなら、是非実行したいと思ったこと、あるいは死んで他の世界に生まれ変わった後でも、忘れずに実行したいと思ったことなのである。

  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ

賢治が最初にいうのは、自分の体へのこだわりだ。賢治は少年期から青年期にかけて死にそこなうような病気にたびたびかかった。それがもとで看病していた父親までが病気にかかった、体が弱いということは、ただ単に自分の生き方を制約するにとどまらず、他者まで巻き沿いにすることがある。ましてそれが愛する肉親だったら、こんなにもつらいことはない。

賢治の自分の病身へのこだわりは、他の作品にも随所にこだましている。「ポラーノの広場」の中で、仲間たちがキューストにもユートピア作りへ加わるように進めたとき、キューストは体が弱いことを理由に、この楽しい試みを断念せざるを得なかった。つまり「丈夫ナカラダ」をもつことは、この世に生きることにとって、なによりも優先すべき大切なことがらなのだ。

  慾ハナク
  決シテ瞋ラズ
  イツモシヅカニワラッテヰル

丈夫な体を持った上で、次に大切なことは、穏やかに生きるということだ。欲を持ってはいけない、欲をもつことは他人を道具に使うことにつながる、そして決して怒らず、いつも静かに笑っていられるような、心の平静さをもたなければならない。

  一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ
  ジブンヲカンジョウニ入レズニ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ

粗食によく耐え、無欲でいることが大事なことを、賢治は重ねて言う。一日四合とは、米が主食であり続けた日本の食文化において、長い間成人ひとりが一日に食べる米の量の標準だった。

今日の感覚から言えばずいぶん多いように思えるが、それは現代人が多くの副食を取っているからだ。賢治の時代にあっては、多くの人々は米のほかに粗末なおかずを、それも少量とっていたに過ぎなかった。腹を満たしてくれるのは、基本的には米であったのだ。

  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ

そんな賢治の住まいは、野原の中の粗末な小屋でよい。そこでなら死んだ妹の遺影を眺めながら、仏の教えに耳を傾け、過不足なく暮らしていける。そして東西南北四方に何か困っているひとがあれば、助けにいくことも出来る。

人を助けに行くというのは、見返りを期待するものではない。それは自分自身の生き方そのものなのだ。見返りを期待するとき、人の行為は純粋な性格を失う、ただ単にありがとうと感謝の言葉を述べられるだけであっても、それは一種の見返りの性格を帯びる。与えることに与えられる効果が響きあうと、それは純粋な贈与ではなく、交換というものに堕落する。

だから純粋な贈与を心がけるならば、見返りを期待してはならない。これが賢治の理想とするありかただ。ここからこの文章の真髄ともいうべきものが導き出されてくる。

  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ

賢治が理想とするのは、みんなに「デクノボー」と呼ばれるような存在になることなのだ。「デクノボー」は決して自分の行った行為を感謝されることがない。彼のする行為は、当たり前で気に留める価値もない些細なことなのだ。だが純粋な贈与とはこんな性質のものなのだ。自分はだからデクノボーとして、言い換えれば空気のようなものとして生き続けたい、

  サウイフモノニ
  ワタシハナリタイ

そうだ、そういう空気のような存在に、賢治はなりたかったのだ。空気として、あるいは「すきとほった風」として、この世を吹きぬける。風が吹き抜けた跡にひとは何者をも感じてくれないかもしれないが、さわやかな風を糧にして生きる力を感じるかもしれない。それでいいのだ。

  南無無辺行菩薩
  南無上行菩薩
  南無多宝如来
  南無妙法蓮華経
  南無釈迦牟尼仏
  南無浄行菩薩
  南無安立行菩薩

賢治という風が吹き抜けた後には、風の去った方角から、あるいは思いがけないところから、あるいは天上の世界から、法華経の尊い言葉がこだましてくるだろう。


雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち

慾はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かりそして忘れず

野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば行って看病してやり

西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ

褒められもせず苦にもされず

そういうものにわたしはなりたい


(原文)

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

「雨ニモマケズ」のモデル・斎藤宗次郎から孫娘へ、戦時下の往復書簡集

[文]小河雅臣  [掲載]2013年08月15日

宮沢賢治「雨ニモマケズ」のモデルとされる斎藤宗次郎氏 


宮沢賢治「雨ニモマケズ」のモデルとされる斎藤宗次郎氏

【右上】昭和20(1945)年8月20日付の宗次郎氏のはがき。玉音放送を聞く宗次郎氏らが描かれている。「筆をとるまでに4、5日かかっているようだが、多くの日本人と同様、このとき、気持の整理がすぐできる状態ではなかったようだ」(書簡集の説明より)
【左下】同年10月16日付の宗次郎氏のはがき。「(はがきの)右上にも宗次郎の姿が見える」(同)
=いずれも「斎藤宗次郎・孫佳與子との往復書簡」より 
【右上】昭和20(1945)年8月20日付の宗次郎氏のはがき。玉音放送を聞く宗次郎氏らが描かれている。
「筆をとるまでに4、5日かかっているようだが、多くの日本人と同様、このとき、気持の整理がすぐできる状態ではなかったようだ」

(書簡集の説明より) 【左下】同年10月16日付の宗次郎氏のはがき。

「(はがきの)右上にも宗次郎の姿が見える」(同) =いずれも「斎藤宗次郎・孫佳與子との往復書簡」より

表紙画像著者:斎藤宗次郎、児玉佳與子、児玉実英  出版社:教文館 価格:¥ 3,150

 太平洋戦争末期、ある疎開先の孫娘と祖父が交わした往復書簡が出版された。空襲が激しさを増すなか、祖父の絵はがきは、希望を持って正しく生きる

ことを繰り返し説いている。

 孫娘は、元天理大教授の児玉佳與子(かよこ)さん(80)。祖父の斎藤宗次郎氏(1877〜1968)は、岩手県出身のキリスト教徒で、宮沢賢治の「雨ニモ

マケズ」のモデルとされる。キリスト教思想家で非戦論を説いた内村鑑三の弟子だった。 孫娘の夫で元同志社女子大学長の児玉実英さん(80)=京都市北

区=が編集。「斎藤宗次郎・孫佳與子との往復書簡 空襲と疎開のはざまで」とのタイトルだ。 国民学校5〜6年生だった佳與子さんは長野県上田市郊外に

疎開中で、2人は44年8月から終戦後の翌45年11月まで計160通の絵はがきや手紙をやりとりした。


 東京都内に住んでいた斎藤氏は、日々激しさを増す空襲の被害状況や防空壕(ごう)づくりの苦労などを報告する一方、庭で育てる野菜について「(カボチャ

が)三キロ位になって花壇にゴロゴロしている。食事をしながら眺めるのは誠に楽しい」「次郎柿だ。四つなった」など日常生活の喜びを書き送っている。


 また佳與子さんの誕生日には「どんな事があっても恐るるな、驚くな、失望すな、悲観すな」などの言葉を贈った。


 これに対して佳與子さんも日々の絵はがきのほか、手書きの「佳與子新聞」を4号まで刊行。学寮で育てている蚕の成長ぶりや、飼っていたウサギの失踪事件

などを生き生きと報告している。一方で、空襲による家族の身を案じつつ「私は元気ぴんぴん」「もし家族全めつしたって、あたしだけは生き残って、第二の国民

として立つ覚悟で来た」と気丈な面も見せる。


 実英さんは「隣国との摩擦を口実にした武力行使を支持する世論の高まりに不安を抱く。書簡からは、戦争の影を色濃く読み取ることができる。戦争で犠牲に

なるのは市民や子どもたちであることを、改めて胸に刻みたい」と話している。

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